ペンギン*ハイウェイ

◆到着。早速読み始める。

◆冒頭20ページぐらいまで読了。なんだか、はてなの”この門をくぐる者は・・・”みたい。いいじゃん、この主人公の男の子。

◆250ページぐらいまで読了。なんだか、ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』とか『何かが街に』みたいな感じ。

◆そして読了。う〜む。
郊外を舞台に健全で健康な話を書きたかったようなのだけど。確かに少年の成長譚ではあるのだけど、世界がいまひとつ深みにかけるように思う。『たんぽぽのお酒』も理屈で理解できることと、できないことや、楽しいことと残酷なことが夏休みの少年の視点から絵がかれているのだけど、その光と影がともに鮮烈に描かれている。ペンギンにも、人間が理解できることとできないことが共存する世界と、その中で主人公がいかにも少年らしいことを感じ・考えながらお話はすすんでいくのだけど、光も影も弱い。底が浅いというか、世界が薄いというか。私には今ひとつだった。

◆なぜそう感じるのだろうかと、夕食をはさんで考える。なぜ森見は郊外を書きたかったんだろうか。彼が育った奈良郊外の住宅地のイメージなんだろうなぁ。学園前あたりだろうか。彼にとっての郊外は明るく、きらきらしていて、そのはずれには古い土地が広がって物語りが潜んでいたのだろうなと思う。

◆私自身は大規模開発の郊外の街に住んだ経験はない。そんな私にとっての郊外の街の印象は、大人になってから見る郊外で、同じような生活環境の、同じような年頃の子供達ばかりがいるような煮詰まった均一化した街でそこに住む人と街がともに歳をとっていくようなそんなイメージで、決して良いイメージは持っていない。欧米の真似事のような家が立ち並ぶ様は、住人の精神的な貧しさや主張のなさがかえってあらわになっているようなそんなイメージでしかない。

◆確かにペンギンハイウェイで描かれる主人公達の生活は、私のイメージする郊外よりも明るい。私はそこに底の浅さを感じるのだけど、考えてみれば主人公の友達の父親は大学の先生だったり、主人公の父も大学の社会人講座に学びに行っていたりする。私の郊外生活者のイメージとは違う。

◆郊外を舞台にするのはなぜだろうともう一度考える。彼にとって、少年時代の懐かしい思い出の街だからなんだろうともう一度思う。もう少し大人になったら、少年は郊外の息苦しさを感じたろうか。そんなことも思う。

◆郊外を舞台にソラリスを展開したのは、解決できない、また、しないほうがいい問題というのが存在するのだということを知ることで少年が一つ大人に近づく話を書きたかったからで、森見自身が育った郊外でこそ、その舞台に相応しいと置いたからなのだろう、と、一夜あけて考える。森見の少年時代はとても幸せな時代だったのだろうと感じる。主人公の少年はとても幸せそうだ。森見が街中で育ったとしたら舞台は街中になったのだろうか。そんな気もする。私にとってこの話の舞台を郊外に置く必然性が(森見が育ったであろう地域であることを除外すると)あまり感じ取れない。


ペンギン・ハイウェイ

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