事実と認識

◆昔からの友人と4人で飲む。


◆話題は今の話や大学時代、高校時代の話へと行きつ戻りつをするわけだが、友人たちの話す内容の濃さやドラマチックさと比べて、私自身のこの数十年のなんと平坦なこと。苦労していないということではないのだけど、どうも平板だ。自分が薄っぺらな生き方をしてたなと感じる。これは古い友人たちと話すと常に感じること。その頃、何をしてたんだろう、私。


◆友人たちのように、懐かしく語るような濃い思いもないし、誇らしく語るいきさつもないし、数々の"事件”に満ちているわけでもない。その時、その時で、いろんなことはあったろうし、いろいろと考えて悩んだりはしているのだけど、それがフラットに片付けられてしまっていて、振り返ると平板になっている。いろんなことがあったけど、まぁ、しかるべき方法で片付けたよ、といった感じだろうか。イヤだなと思うのは、それは過去の話にとどまらなくて、今もそうなんだろうと思うこと。日々のムカツキやうれしさを、型にいれて片付けてないだろうか、私は。


◆これは二つの問題があると考える


◆一つは、感情の整理の問題(型にいれて片付けていないかという点)。もう一つは事実と認識。物事の受け止め方の差ではないかと思う。物語的に受け止める(知覚する)か、客観的に受け止めるか。人の人生に起きることの質量に、とてつもない差はないだろうと思うし。この受け止め方。知覚の仕方のほうは資質の問題なので、どうしようもないだろう。問題は、最初の方。日々おきていることを、パターン的に受け止めて流していないかということのほうだろう。感情をそのように扱うと、生きるのは楽だと思うが、どこかで帳尻をあわせないといけないようになるような気がする。気をつけよう。